日本は一見、豊かにみえるが。

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こんにちは!社会福祉士の「きなこ」です。あらゆる制度や価値観が豊かになっているはずの我が国「日本」。ではなぜこんなにも息苦しさを感じる瞬間があるのでしょうか?今回はそれを「普通」とは何なのか?という観点から考察していきたいと思います。

 

社会人像は多様化している。サラリーマンとしての社会人像、フリーランスとしての社会人像、アーティストとしての社会人像、クリエイターとしての社会人像、ノマドワーカーとしての社会人像・・・と働き方は多様化し、それぞれに求められる「普通」の概念もまた違い、一人ひとりが働くうえでの「お金・やりがい」など何に重きをおいてるかもまた違う。様々な価値観の人がいる日本。「多様性」が叫ばれているに日本。

 

現代社会では「多様性」という言葉が浸透しているが、肝心の多様性を認め合うところまで発展しているだろうか。否、これから日本の未来を担う若者を育てる学校は「多様性」を尊重しているか。していない。校則というもので頭髪やファッションを縛り、生活習慣を縛り、内申点なるスコアで価値がつく状況を作り上げてしまっている。学校で「成績が良い子」というと思い浮かべるイメージは数学・英語・国語などの進学に役立つ知識に優れている子を思い浮かべるだろう。ではその分野の知識に乏しい「成績が悪い子」は不良なのか。努力不足なのか。いや、そんなことはない。もしかしたら「成績が悪い子」とひとことで片づけられるその子は芸術分野に長けているのかもしれないし、何か別の分野で将来「成績の良い子」より大金持ちになる可能性だってある。というより前提として人には向き不向きというものがある。それを一切排除し、日本社会の大多数の大人が送る生活形態を至上のものとし、その価値観に合わせて学校は作られているのではないか。なるほどその場合、本来素質として一般社会の生活形態と合わないスタイルの働き方が合っている子にとって日本の学校は異国である。言語や人種は同じだが価値観が全く違う異国の学校に、それも「義務教育」として入れられているわけだ。そりゃ苦痛だろう。ここでは「義務教育制度」を批判しているわけではない。何がいいたいのかというと本当に「多様性を尊重し合える」社会を作りたいなら、まず川上である大人の働き方の多様性を認め合える社会にしなくてはならないということだ。

 

つまり学校という大多数の一般人が送るワークスタイルに合った価値観に基づいて作られた基準だけで子どもたちが評価される環境を作っていては、将来大人になったときに自分たちが評価されたと同じ視点で人の価値観を評価するだろうということ。サラリーマン以外の働き方をしようとする若者に釘を刺す大人。子どもの夢を応援できない親。が量産されていく。日本社会の上層部に君臨する老人が勝手に作った「普通」という価値観の逸脱者として人を評価する人間たちの出来上がりだ。でもその「普通」が好きな方にとってはその価値観が正しいと思っているんだから、否定する必要はない。その価値観も一つの価値観なのだから尊重されて然るべきだろう。ここで問題にしているのは、価値観の違いでも固定化でもない。評価基準に合う子には素直に褒めてあげてほしいとも思っている。

 

では何が問題なのかというと、『大多数の人にとっての「普通」、少数の人にとっての「普通」、そのどちらも同等に尊重されるべき価値観なのだ』ということを学校教育現場は教えられる環境にならなければいけない。ということ。内申点や成績が上位の生徒だけが評価される仕組みに既になってしまっているんだから、先生方もその方針に従わざるを得ないのは仕方ないが、どうか全ての生徒の何か良いところを見つけて褒めてあげてほしい。そして「相手の立場にたって考える」という心を養ってあげてほしいと心から思う。現代の教育現場には何か新しい要素をつけ加えないといけない。