相手の怒りが誤解だった時の対処法

f:id:byplayer2021:20220411230508j:plain

 

こんにちは。きなこです。

 

昨日、友人と口論になりました。それは清掃ボランティアに友人と一緒に参加していた時です。終了時に友人は大きな袋に空き缶や良く分からないプラスチックごみ等を詰めて袋をパンパンにしていました。一方、私が清掃するルートは友人のルートとは違い、あまりゴミが落ちていませんでした。

 

そのため、持っている袋はあまり溜まっていません。私は素直に友人に「がんばったな!」と声をかけました。しかし友人は私に対して「サボってたんやな」と言いました。私自身、隈なく道のゴミを探していましたのでサボっているつもりはありません。そのため私は「これでも自分なりに頑張ってたよ」と返しました。しかし友人は何故か不機嫌そうな顔で「ふーん」と一言。私はサボってたと誤解されてるのかなと変にムキになってしまい、「小さいゴミしか無かったから仕方ない」と返答しました。すると友人は「はいはい。私が間違ってました。すみません。自分の正しさばっかり押しつけるの止めて」と返してきました。

 

その時は正直、腹がたち、かといって何も言い返しませんでした。今の友人にはどんな言葉もマイナスに捉えられると感じたからです。今思い返すと、私は普段から無意識に友人に対して「正しさの押しつけ」というものをしてしまっていたのかもしれないと反省しました。友人の普段からの私に対する鬱憤や、自己肯定感の欠如が積り、日常生活におけるちょっとした場面が引き金となり、前後の会話の脈絡に関係なくそれが浮き彫りになったのではないかと推察しています。

 

相手が誤解して自分に対して怒ってきた場合でも、必ずしもその誤解を解けば収まるとは限らないという事を学びました。相手が誤解している限り、弁明することは必要なのは事実ですが、その際に「相手の間違いを正す姿勢」が前面に出してしまうと、逆に相手を「負けたくない」という気持ちにさせ、口論になってしまうのだと思います。

 

理不尽な話ですが、この件に関しては「普段からの何気ないコミュニケーションを大切にすること」と「非難されてるときこそ、謙虚な姿勢で接する」という2つのポイントが大事だと知りました。ちなみに友人とは何事もなかったようにまた、楽しくやっています。

 

 

自分なりの「一人で過ごせる環境」を確保しておこう!

f:id:byplayer2021:20220330194637j:plain

こんにちは!社会福祉士のきなこです!

 

突然ですが、ちょっと一人になりたいときってありますよね。例えば「考え事をしたいとき」「悩んでいるとき」「腹が立って気を落ち着かせたいとき」「とりあえずプライベートな環境がほしい」等。特に考え事をしたい時などはプライベートな空間じゃないと「考え事」に集中できないはず。なぜなら「いつ声をかけられるか」という、その場面では余計な事に気を配らないといけないからです。

 

かといってプライベートな環境ほしさにネットカフェに行ったとします。確かに落ち着きはします。単に一人の空間がほしいだけのときはピッタリの環境でしょう。リフレッシュもできます。しかし、「考え事」をしたいときであれば、あまりおすすめはしません。なぜなら、ネットカフェは料金がつくからです。そこで漫画や映画を鑑賞したり、ドリンクやアイスを食べたり、その環境を満喫してリフレッシュをするのが目的であれば問題ないのですが、「考え事」をするとなると、「今この瞬間にも料金が発生しているんだ」という余計なモヤモヤが頭に過り、集中できません。それに支払った後もこんなにお金を払うならもっと色んなサービスを利用して満喫しとけばよかったと後悔しかねません。

 

というわけで、「ちょっと一人になりたい」時におススメの「一人」になる方法をお伝えします。まずは近所の図書館です。図書館の最大のメリットは場所とサービスが無料であるという所です。ドリンクバーは無いですが・・・。適当な本を手に取り、設置してある椅子に座りさえすれば、「一人」になります。閉館時間を過ぎさえしなければ、誰にも声をかけられることもなく落ち着けます。

 

次におススメしたいのが電車です。これは空いてるときに限られるかもしれませんが、電車はどんなに人が多かろうと、あるメリットがあります。それも電車の中ならではのもの。それは、目を瞑って座っていても不審に思われないということです。例えばカフェやファミレスで目を瞑ってジーっとしていれば、あんまり落ち着きませんよね。「何か思われていたらどうしよう」とか余計な事を考えてしまいます。その反面、電車は切符代はかかりますがちょっと遠出を計画すれば「一人になれる時間」が確保できます。最終的な目的地だけ決めておけば、2時間くらい電車を降りずに往復することができます。私も夜勤明けの日はちょっとだけゆっくりしたくて電車に1時間ほど揺られていたことがあります。その時の目的地は美味しいレストランが近くにある駅に設定していました。いわゆる「自分へのご褒美」というやつです。

 

コロナ下では在宅ワークが盛んになります。良い面で考えれば、「家族と過ごせる時間が増えた」といえます。しかし一方で「プライベートの時間が無くなった」という側面もあります。「ちょっと一人になりたい」と感じるのは、あなたが家族を疎ましく思っているわけではく、ましてあなたの人間的な器が小さいからでもありません。人には少なからず「一人になる時間」が必要な精神状態の時があるのです。そういう精神状態になっても大丈夫な様に、自分なりの「一人で過ごせる環境」を見つけておくことで、ストレスフリーな生き方ができます。

 

レンタルコンテンツの思い出

f:id:byplayer2021:20220311220206j:plain

 

こんばんわ!社会福祉士のきなこです。

 

今回はレンタルコンテンツの思い出について語りたいと思います。レンタルショップといえば「GEO」や「TSUTAYA」が有名どころですね。

 

約15年前くらいには、まだレンタルビデオ店が数多く存在していました。今ではDVDとBlu‐rayが占めていますが「GEO」にもビデオテープが並んでいた時期もありました。子どもの頃は、近所のメジャーではない個人経営のレンタルビデオ店に車で連れってってもらい、よく怪獣映画を借りてもらっていました。今ではその店も、時代の波には勝てず閉店しています。

 

その後は、まだビデオテープが並んでいた頃の「GEO」でお世話になりました。DVDが店頭に並び始めたときは、こんなに薄いのにちゃんと映るのか。と思いましたし、ビデオテープとは違いDVDは読み込み部分が剝き出しなので凄く気を使っていたのを覚えています。新作のDVDを借りると指紋や傷が一切なく、なんだか嬉しい気持ちになっていたりもしました。ビデオテープが徐々にDVDに変わっていくので、DVDプレイヤーが新しく家に導入されたときはワクワクしました。

 

そして今ではサブスクと言われる動画配信サービスが流行してきました。コロナ下で家にいる機会が世間的に広がったのが大きな要因だと考えられます。私も利用しています。これまで映画やアニメを観る機会というのは、全部レンタルショップを通してでした。しかし今では動画配信サービスで全て完結しています。月額500円くらい払うだけで一部を除き、あらゆるジャンルの作品が観放題。対してレンタルショップは一枚借りると110円。映画好きの私にとっては、どうしても配信サービスのほうがお得になってしまうのです。だから配信サービスを利用しつつも、レンタルショップは果たして経営困難になっていないか・・・と心配していました。

 

ビデオテープ主流時代がDVDディスクという時代の波を受けて撤退した時の様に、動画配信サービスが新たな時代の波として押し寄せ、既存のレンタルショップの存続が危ぶまれないことを祈るばかりです。どうか共存する未来になってほしい。なぜなら長年レンタルショップを利用してきた私にとってはその場所自体が「心の拠り所」というか「思い出の場所」になっているのですから・・・。

 

 

「今を生きろ」って結局どういう意味か分からない。

f:id:byplayer2021:20220311190205j:plain

 

こんにちわ!社会福祉士のきなこです。

 

最近、自己肯定系の本を何冊か読んでいるのですが、そこにたびたび「過去のことで悩まず、未来に不安を持たず、今を生きることが大事」という文章が目に入ります。その文章を読むたびに、そんな生き方が出来たら幸せに過ごすことができるんだろうなぁ・・・と魅力を感じます。よし!自分も「今」を生きよう!と思うんですが、その度に毎回あることが過ります。

 

それは、結局「今」を生きるってどういう状態のことだろう?ということ。よく未来に不安を持たず、過去のことで悩まず・・・といいますが、その状態も息をして生きているんだから「今を生きてる」っていえないんでしょうか?う~む。例えば休日に家でボーッと何もせず寝転んでるときって「今を生きてる」に入らないのかな。

 

では「今を生きてない」ってどういった状態なのかを考えると、やはり前述の「過去のことで悩んでる」「未来に不安を感じてる」状態っていえますよね。それはつまり「物事に身が入らない」という状態が「今を生きてない」ってことじゃないのかなと捉えることができます。では「今を生きてる」の場合、目の前のことに意欲的に身がはいって取り組んでる状態ってことになりますよね。しかしその場合、本人の意思で家でゆっくりとゴロゴロしているのは「今を生きてないのか」ってなりますよね。だから私は、「今を生きてる」って結局どういうこと!?ってなっています。

 

私にとって「今を生きる」というのは高度で、未だ到達し得ない次元の概念でした。なのでとりあえず夜、寝る前に布団のなかで「今日もがんばったなぁ」と思えるようにする所から始めたいと思います。うん、それでいい。余計なことを考えるとそれこそ、そればっかりムキになって「今」を生きれなくなる・・・。気がします。

 

 

自分なりのスマホのメモ機能との向き合い方

f:id:byplayer2021:20220310203656j:plain



こんばんわ!社会福祉士のきなこです。

 

今回は私の身に起きた悲劇について話します。それはスマホのメモ機能の一部がなぜか消えていたということです。個人的に大事なことを書いていたので落ち込みました。復元方法についても調べたのですが、どれも解決には繋がりませんでした。原因が不明なので解決策も分からず今も元には戻っていません。

 

例えば、文章を入力してその場で消してしまった場合はなんとスマホを何度か上下に振ると文字を復活させることができるそうです。ですが私の場合、一週間くらい前の文章なのでその裏技は使えませんでした・・・。

 

スマホのメモ機能は実在の書類と違って勝手に消えることがあると知りました。というわけでこれからはメモ機能を信用しすぎず、かといって便利な機能であることは変わりないので自分なりに3つの対策を講じることにしました。

 

それがこちらです。

① メモ機能に書いた文章をコピーして「Word」などのソフトに張り付けて保存する(後で印刷もできるので)

② 紙に書き起こしておく

スクリーンショットを撮っておく

 

自分の中では大事な文章をメモ機能に残していたため、消えたのは結構、ショックでした。今はそのショックを補うために「失敗から学んだ」スタンスでいたいと思います。あと、電子ではなく実在の書類の圧倒的安心感を感じました。また、ネット上の自分のブログや映画レビューなどの無形資産は、紙などに印刷する等して「有形資産」にしたほうがいいんじゃないかと過りました。

 

 

気になったお菓子

 

こんにちは!社会福祉士のきなこです。今回はスーパーで売っていた気になるお菓子の話をします。

 

そのお菓子がこちらです。

 

f:id:byplayer2021:20220307094805j:plain

 

その名も「フォンティア」!おしゃれな名前ですね。思わず写真を撮りました。あまりにも自分好みすぎるパッケージだったので。今回は買えませんでしたが次、発見したら必ず入手してじっくりと味わいたいと思います。「生チョコを包んで焼き上げました」って最高のキャッチコピー。

 

製作会社を調べてみると、あの「アルフォート」や「ルマンド」でおなじみの『ブルボン』。「フォンティア」は手につかず、溶けないチョコクッキー菓子として2月15日に発売された新商品だそうです。早く食べたい~!昨日買っとけばよかった。

 

ではまた!

 

 

日本は一見、豊かにみえるが。

f:id:byplayer2021:20220306093703j:plain



こんにちは!社会福祉士の「きなこ」です。あらゆる制度や価値観が豊かになっているはずの我が国「日本」。ではなぜこんなにも息苦しさを感じる瞬間があるのでしょうか?今回はそれを「普通」とは何なのか?という観点から考察していきたいと思います。

 

社会人像は多様化している。サラリーマンとしての社会人像、フリーランスとしての社会人像、アーティストとしての社会人像、クリエイターとしての社会人像、ノマドワーカーとしての社会人像・・・と働き方は多様化し、それぞれに求められる「普通」の概念もまた違い、一人ひとりが働くうえでの「お金・やりがい」など何に重きをおいてるかもまた違う。様々な価値観の人がいる日本。「多様性」が叫ばれているに日本。

 

現代社会では「多様性」という言葉が浸透しているが、肝心の多様性を認め合うところまで発展しているだろうか。否、これから日本の未来を担う若者を育てる学校は「多様性」を尊重しているか。していない。校則というもので頭髪やファッションを縛り、生活習慣を縛り、内申点なるスコアで価値がつく状況を作り上げてしまっている。学校で「成績が良い子」というと思い浮かべるイメージは数学・英語・国語などの進学に役立つ知識に優れている子を思い浮かべるだろう。ではその分野の知識に乏しい「成績が悪い子」は不良なのか。努力不足なのか。いや、そんなことはない。もしかしたら「成績が悪い子」とひとことで片づけられるその子は芸術分野に長けているのかもしれないし、何か別の分野で将来「成績の良い子」より大金持ちになる可能性だってある。というより前提として人には向き不向きというものがある。それを一切排除し、日本社会の大多数の大人が送る生活形態を至上のものとし、その価値観に合わせて学校は作られているのではないか。なるほどその場合、本来素質として一般社会の生活形態と合わないスタイルの働き方が合っている子にとって日本の学校は異国である。言語や人種は同じだが価値観が全く違う異国の学校に、それも「義務教育」として入れられているわけだ。そりゃ苦痛だろう。ここでは「義務教育制度」を批判しているわけではない。何がいいたいのかというと本当に「多様性を尊重し合える」社会を作りたいなら、まず川上である大人の働き方の多様性を認め合える社会にしなくてはならないということだ。

 

つまり学校という大多数の一般人が送るワークスタイルに合った価値観に基づいて作られた基準だけで子どもたちが評価される環境を作っていては、将来大人になったときに自分たちが評価されたと同じ視点で人の価値観を評価するだろうということ。サラリーマン以外の働き方をしようとする若者に釘を刺す大人。子どもの夢を応援できない親。が量産されていく。日本社会の上層部に君臨する老人が勝手に作った「普通」という価値観の逸脱者として人を評価する人間たちの出来上がりだ。でもその「普通」が好きな方にとってはその価値観が正しいと思っているんだから、否定する必要はない。その価値観も一つの価値観なのだから尊重されて然るべきだろう。ここで問題にしているのは、価値観の違いでも固定化でもない。評価基準に合う子には素直に褒めてあげてほしいとも思っている。

 

では何が問題なのかというと、『大多数の人にとっての「普通」、少数の人にとっての「普通」、そのどちらも同等に尊重されるべき価値観なのだ』ということを学校教育現場は教えられる環境にならなければいけない。ということ。内申点や成績が上位の生徒だけが評価される仕組みに既になってしまっているんだから、先生方もその方針に従わざるを得ないのは仕方ないが、どうか全ての生徒の何か良いところを見つけて褒めてあげてほしい。そして「相手の立場にたって考える」という心を養ってあげてほしいと心から思う。現代の教育現場には何か新しい要素をつけ加えないといけない。